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E、仏教・神道以外のいろいろな宗教について調べたいと思います。ごゆつくり どうぞ。
E 仏教以外のいろいろな宗教について
  

@天理教  A金光教  B
大本教
                   
 


 先日来 神様や仏様の戸籍調べのような事をして来たが 一転し新しい発想で 頭を使いたいと思い 仏教以外の新しい教団に就いてを調べることにした。難しく簡単には進まないかも知れ無いが、ボケ防止のつもりでやってみます。

 巷に大きな殿堂が建設されているのを見かけます。○○○教会との看板が掛懸かっています。すばらしい力を持つ教団と思われる、天理教教団です。どんな教義の教団なのか自分は 全く知りません。こんな事では 恥ずかしく 情けないでは無いかと、概略でも 知りたい。どんな教団なんだろう。奈良県の天理市に総本部があり、親神天理王命「おやがみのてんりおうのみこと」「俗名中山みき」が、天保9年に初めて明かされた、「陽気ぐらし」をモットーとする、教団で信徒数 250万人以上と言います、その教団の支所・分教会等は全国に1万7千ケ所以上あるそうです。その教団の団結力はすさまじいと言います。ぼんやりながら、分ってきました。


「はじめに」日本宗教の時代的推移を振り返ってみよう


● 
先ず新しい教団を考える前に基礎知識として知っておかねば成らないことは。幕末から明治時代にかけての転換期の社会に生まれた新しい民衆宗教の代表、それが教派神道です。


 教派神道は、神道大教・神道修成派・黒住教・大社教・扶桑教・実行教・大成教・神修教・御岳教・神理教・禊教・金光教・天理教・の十三派です。


 明治政府は、政権確立の基礎となる国民の精神統制を、天皇崇拝の思想に依って固めようとし。そのため、神道中心で、神社を公の施設とし公認した。それは、「国家神道・神社神道」と呼ばれ、天皇崇拝を支える教義をもつ宗教であるため、特別の保護を受けたのです。神社神道を一般の宗教と区別し、「神社は宗教に非ず」と定めたのです。


 政府に公認された国家神道以外は、総べて政府の公認を必要としたのです。その為 神社神道に対して「教派神道」と呼び。新しい民衆宗教は、宗教活動をする為、政府の公認を得なけれ成らなかった。公認が無ければ、官憲の弾圧回避が出来無かったのです。天理教の教祖「中山みき」は明治7年から明治19年の、12年間に、18回 警察への拘留処分を受けており歴史上に言う鎌倉仏教の「法難」に等しい辛苦をなめさせられたのです。


 不当な弾圧を受ける理由は非公認宗教である為だったのです。そこで非公認教派はこぞって、政府の公認を受けるべく走り 競って公認取り付けに努力したのです。


 その結果、明治政府の公認は徐々に進み。明治9年に黒住教・神道修成派・が公認された。続いて13年には、神修教・が、15年には、実行教・扶桑教・御岳教・大社教・大成教が公認された。17年には丸山教が・続き37年には神理教が、33年には金光教が公認され。教派神道十三派は相次いで公認されたが、天理教の公認は一番遅れて明治41年に公認されると言う悲劇を味わわされています。


 教派神道は、公認獲得の努力を続ける一方、「病を治し」「苦悩を癒し」など現世利益を中心とする 民衆の救済を説き進め、近代社会で、民衆宗教としての地位を確立して行った。思うに、苦難との戦いの歩みでもあった。現世利益の恩恵に浴した民衆の力強い後ろ盾に助けられての現在があると言えよう。この強い団結力は、並々ならぬものであるはずである。


 斯様な教派神道と呼ばれる教派は、暫時拡大して行くが、敗戦とともに明治政府の政策も終末を告げ、新憲法のもと、信仰の自由・宗教の自由へと国家は変貌し 宗教の世界に官憲に依る統制も無くなり完全に開放された。しかし宗教の自由との掛け声とともに 「 まがいもの」に等しい宗教も台頭し始めた。近年になって、公安維持の名のもと 少々厳しいかと思われる新宗教法人法なるものが成立し、既成教派「既成教団の自由を」徐々に締め付け始めたような、気もしない訳でも。これは 殺人事件を起こした、オウム真理教の事件が発生 大量殺人事件を起こす教団らしき団体の発生が さも宗教と関係付けられているが如き印象を与える事件が起きたからに他ならない。



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● 日本人と宗教との関わり

 
ここらで、日本人と宗教との関わりを、示しておこう。そもそも現代の日本人の宗教観は「無神論者を除く」国民の20〜30パーセントが宗教の持つ思想を肯定していると言われている。 ※「笠原一男説」・「統計数理研究所」「昭和41年文部省宗教年鑑」


 宗教の心を己の心として生きていると考えられているのが 20〜30%だと言い、その数の捉えている宗教は、「一つの神・一つの仏・では無い。俗に言う八百万「やおよろず」の神、八万四千の佛 と言われる 諸仏・諸神の心に依って現代を生きていると言えるのです。


 現代日本の宗教は、種類の点でも多きを誇っており年輪においても千差万別と言える。民族の形成と歴史を共にした神社信仰・1.400年の伝統を持つ仏教・100年に及ぶ歴史を民衆とともに歩いた教派神道・それにキリスト教・巷の神々など、まさに さまざまである。しかも、それぞれが幾つかの流派にわかれている。その中最も多くの日本人が心を委ねたのが仏教であることは言うまでも無い。しかし その仏教も常に同じでは無く、大いなる時代の転換期の度ごとに、時代に相応しい仏教へと生き返らせて来ている。2.000年の歴史の中、四つの時代を経て来ていると思う。


 @古代・A封建時代・B近代・C現代がそれである。この四つの時代に三つの転換期を必要とした。古代から封建時代へのつまり平安から鎌倉の転換期が 第一で、封建から700年が過ぎ近代への転換期、言うなれば江戸から明治への転換期が第二である。そして敗戦を期として近代から現代への転換期が第三の転換期であった。


 これら三っの転換期の時代を宗教の面に視点を合わせて見ると、例外無しに、民衆宗教が単数で無く複数で誕生していると言う歴史の現実がある。


 第一転換期には、法然・親鸞・一遍による念仏の救いであり、栄西・道元による禅であり、題目に依る日蓮の仏教である。


 第二の転換期には、教派神道十三派が生まれ、江戸時代から近代社会の転換期の時代に生きる、民衆に、心の支えを与えて来たのが、先に述べた十三派の教派神道です。


 そして第三の転換期には、創価学会・立正佼成会を始めとする無数とも言える 新興宗教が誕生し、短い期間に多くの日本人の心を捉えて来た。斯様な特性をもつ日本の宗教を、再度 歴史を辿って振り返って眺めてみよう。


 江戸時代も末期に近付いた頃、社会の動揺と不安は募っていた。生きる為に民衆は、本当の生きた宗教を求めてやまなかった。その様な中で生まれたのが、天理教・金光教・黒住教などの教祖信仰であった。生身のままの人間が神として発言を行い、多くの民衆に「生き神」自ら救いを説く、生き神信仰の誕生である。


 斯様に教祖信仰が大きな発展を遂げ、数を増すのが、江戸時代から明治時代、つまり封建時代から近代の転換期であった。更に民衆は、生活の苦悩の中から生み出された教祖信仰に生きる支えを求めたのです。


 前述のように近代の転換期に生まれたのが教祖信仰 や、教派神道十三派も、明治政権の公認を得るべくめまぐるしい努力を続けたと述べたが。仏教・キリスト教・皆同様だったのです。明治政府も一応は信教の自由を歌いつつも「安寧秩序を妨げず」の条文のもと神道の国策に反すると判断したら、簡単に警察命令と言った形で弾圧を行ったのです。大本教の辿った弾圧の歴史がその事実を物語っています。


 宗教が真の自由を取り戻し、誰の目の色も伺わずに、自己の信念を堂々と貫き通せる時代は、敗戦を媒介として終焉を告げた昭和20年8月15日を待たなければ成らなかったのです。


 これを機に日本の宗教は「自由の翼を」取り戻し、更に無数の新興宗教が乱立し、現代社会の人々に、多くの生きる心と価値観を与えているのです。受け止める民衆も、初めて自分の信仰を選ぶ自由を手にしたのです。最後にこの信仰の自由を支えたものこそ、日本国憲法第30条である事を忘れてはならないでしょう。


@ 教派神道十三派の内
  「天理教」
を知る

● いよいよ教派神道の話になる、時代的背景は先に述べた通りだが、天理教の存在は歴史的にも話題の中心になるのが当然だろう。何と言っても 一女性が自ら神になった教派だからだ。古くは女人禁制とされた日本仏教、平安の昔から鎌倉・江戸期と言えども 女性の往生すら問題になる差別時代の変遷を経ている経緯があるからだ。女人は穢れた者と看る因習が根強く残っている社会だからである。しかし、民族信仰の中には、道祖神信仰や、性神信仰に見られるように男女同等の考え方が一隅にはあったような気もする。むしろ女性を子孫繁栄・夫婦和合・からして佛のの相好まで 女性のお姿にしてしまう と崇める考え方もあったようである。「神がかるのは、」女性の方が、乗り移り易いかも知れない。赤子を十月十日もお腹で育て、死に迫る思いや苦しみに耐えながら、体を張り命を賭けて子育てをする姿からして、神の為す技と思われて当然かも知れない。


 天理教の原点は女性「中山みき」女性個人から始まった教えである。自らが神になってしまったのです。くどい話は省略するが、「われは、天の将軍である。」と庄屋中山家の主婦 みき は、口走ったのだから驚きである。天保9年10月23日の事だった。突如神がかったのだ。その後 幾多の苦難の経緯も語られているが省略する。


 親神としての みき の最初の実践は「富の放棄からの「陽気暮らし」で始まった。それも、神の命令と言う。「貧への落ちきり」と言う行動だ。先ず身の回りの物を「施し」と言う形で貧しい人々に与えると言う形で進められた。「貧への落ちきり」これが進む過程で、みき 自身の葛藤もあったはず、自分を責める事もあったらしい、それは断片的に 神がかる自身への苦悩だったのだろう。強いて言えば 点としての神が 肯定出来ない時期もあったのだ。この点としての 神が線としての神になるのに、何回も激しい自らへの葛藤の 往来「繰り返し」が あったと想像される。即ち 神がかった自分が、自然に戻った時との心の葛藤である。これが 生き神出現の一現象とすると、興味深い事実として理解出来る。


 斯様に神格化してからの みき は貧しい人への 施しを続け、「貧への落ちきり」の完結を急いだと言われる。みき の「落ちきり」は徹底的であり、最後の母屋の取り壊しの時には、「これは めでたい」と祝杯を挙げ騒いだと言う。自ら神としての実行力が「 貧への落ちきり」に依って実行され。なおも 神格化することに依って、「さあ これからは神である自分が 人を救うのだ」と自らが救世主なのだとの自覚を持って行ったのです。


 そこで、救世主としての みき の布教活動が始まった。それは、末娘の 「こかん」が代理人となって 大阪の街角で、親神の名を「南無天理王命・南無天理王命」「なむてんりおうのみこと」と拍子木を打ち鳴らしつつ唱え続けると言う活動だった。親神 みき 自身も お産の為に 心身の苦悩を持つ女性に対しての実践だった。「お腹に三度息を吹き掛け、三度撫でる」この作法に依って安産の約束をしてやる事だ。安産の約束は次第に広まり、安産を願い出る女性が、続出したと言う。これを「おびや許し」「安産の約束」と言う。


みき は人間思案はいっさいいらぬ、親神様にもたれ安心して産ませていただくように」と、安産を約束し続けた。


 斯様な みき の救済活動は、安産の約束、「おびや許し」を与えることから始まり。この活動は大和地方に順次広まり、評判は益々 高まり 全国へと 広まっていった。


 さらに 安産から、子授けの神・さらに万病救いの神へと救済活動は密度を高めて行き。そうした救いの倫理の一つが、「貧への落ちきり」、「貧人正機」の倫理と言われているものである。


 みき の「谷底優先の思想が」 後になって一部の布教師たちに依って誤って説かれ、天理教は社会から「搾取の宗教」とのレッテルを張られる事にもなったりもした。


 「陽気ぐらし」から始まる、「落ちきり」・「おびや許し」「ひのきしん」へと進んだ天理教の教えは 現世利益そのものであり、当時以後 みき に依って語られた言葉が 天理教の教理となって現在に至っている。


 先ほどの「ひのきしん」と言う大切な教えがあるが簡単に紹介すると。先ず親神様の守護に感謝する事が第一で始まり。感謝の心を表すために、自分の体と心を人のため、世の中のために惜しみ無く使う努力をする事が大切と説くのです。これを「ひのきしん」と言い誰でも 即実行出来ることです。親神様に支えられた暮らしは、親神様とともに暮らす事であり、お大師様の「同行二人」の暮らしであり、その姿が「陽気暮らし」につながるのです。


 この教団の説く教えに 就いて 簡単に述べて来たが 自説を交えた為に いくらかの誤解があるかも知れない。到底こんな簡単な言葉では語り尽せる教義では無く 奥義深いものと思うが、少しばかりは 親神様の近くに足を踏み入れたような気がして来た。今後も暫くの間 この道を調べて学んで行く事で、この罪をお許し願うことにしたいと思う。


A 教派神道十三派の内 

「金光教」 を知る

 
天理教に次いで金光教について調べる予定です。難しく理解するのに困難です、自分なりに学んで見たいと思っています。諸教派は戦後に何百と出来たと聞いています。簡単には 理解でそうにはありませんが努力したいと思います。


このページの記入も暫くお休みしたが、日本の危急存亡のページも終り一段落したので ここらで 金光教の項を考えて見たい。


 前述の天理教と違った一面をみる 事が出来るのが楽しみだろう。


 金光教教祖 川手文次郎は、文化11年「1814」に現在の岡山県浅口郡に生まれた。貧しい農民だった。父は信心深い人物であった。幼くして川手家へ養子に移ったと言う。


 貧農の家だった川手家を継いだ文次郎は家産を増やす事に勤め勤勉に働いた。文次郎が住むこの地方は、山伏達が説く俗信が栄え、とくに 七殺 の祟りがある金神への異怖は、なみなみならぬものがあった。幼い頃より信仰心に育まれた文次郎は、山伏達の説く俗信を固く信じ、とくに人間を脅かす金神の祟りには 深い恐れを抱いていた。その様な文次郎は、日柄・方向などの金神信仰の説く教えを、忠実に守り続けた。その信心ぶりは、村人から「信心文サ」と噂されるほどだった。それにも関わらず文次郎一家は次々と不幸に見舞われた。


 義弟・養父・長男・長女・次男が相次いで世を去り、二年続いて飼い牛の死が起こり、15年の間に、家族・飼い牛と七つのお墓を作らねばならなかった。


 文次郎は「金神七殺」と思わずにはいられなかった。その後の文次郎は、以前にもまして、金神信仰を篤く信ずるようになっていった。


 その様な文次郎が始めて神の声を聞いたのは、安政5年「1856」の正月元旦の事であった。その後も「神がかりをし、しばしば、神の声を聞くようになった」。その後も斯様な神秘的体験を繰り返す中に、金神は人を苦しめる「災いの神」では無く、人間に救いと平和を与える「幸せの神」であると言う自覚を持つようになった。


なんと家業を辞めてくれぬか・・・この方の様に、実意・丁寧・信心致し居る氏子が 世間になんぼふも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神もたすかり 氏子もたちいき。氏子あっての神、神あっての氏子。すえずえ繁昌いたし、親にかかり、子にかかり、あいよ、かけよでたちいきと言う神の声を聞いたと言う。文次郎の宗教者としての新しい人生がこれから始まったのです。


 「災いの神として恐れられていた金神を、幸せの神」にまで、救いの神を転換させてしまった。のが教祖文次郎のの生み出した新しい宗教である一面 文次郎自身は、自らを生き神・教祖とは考えていなかった。「私は何もしらぬ。土を掘る百姓」と言っている。


 文次郎の考えからすれば、人間は神=天地金之神の子であり、文次郎も神の子・氏子であった。文次郎は 天地金神乃神の最初の発見者であり、人間と神の間にあいだに立って、神の意志を取り次ぐ、取次ぎ者であった。彼は自分を「金光大神をはじめとする幾つかの神号で」よんだ。。


 その後文次郎は、神の取次ぎ者として「布教所」に座り、人々の救済の為につくした。当時の社会を生きる人々の生活を苦しめている、金神信仰をはじめとする、諸々の因習から人々を解き放ってやった。既成の金神信仰が説く・日柄・方向などに就いても、かっては忠実に守りとおした文次郎であったが、新しい金神信仰を発見した後には、「人間は勝手な者で、生まれる時は 日柄も言わずに、この世に出て言わずに来るのに、この世でばかり日柄を言うのは可笑しい。死ぬ時には、日柄も何も言わずに死んで行くでは無いか」と説いている。


 文次郎は女人の出産に関しても「婦人は出産するときは、よがり物 腹帯をしなくとも、神に一心にすがれば、安産できる。」と言って 女性に安産を約束している。更に「金神が子供を授けてやっても、これからよりどりしてはならぬ。そんなに事をしたら、要る子は殺し、要らぬ子は引き上げるようになるぞ」とも言っている。人命尊重もといている。


 文次郎は勤勉な働きを薦め、人々に地道に働らく事の大切さを説き、一年で金持ちになろうと思うなね永年かけて出世する事を考えよ。一文二文とためた金は良いが一度にためたお金は神が確かにみているぞ」と一攫千金を夢見る人をいましめている。


 文次郎の使命は、金神信仰におびえていた人々に、新しい金神信仰を説くことに依って、人々を幸福へと導いて行くことであった。金神の第一のご利益は「長命と出世」であると考えた。貧農に生まれ育った文次郎は、人々に地道に働く事を勧め、努力の末に、金持ちや権利者へと到達する事が幸福であるとした。これは前述の天理教の 中山みき が「貧への落ちきり」を幸福へのスタートとした考えだったから、全く違った教えと言える。両者の発想の相違点を考えると 人生観・幸福観の思想との関係を知る上に 興味ふかいものがある。


信者数 全国に55万人と言う。


B 教派神道十三派のうち

「大本教」
を知る



明治末期から大正期にかけて起こった教派神道。開祖と呼ばれる「出口なお」(1837-1918)は、京都府綾部の大工の未亡人で、どん底生活の中で神がかりし、数千冊の「お筆先」を書記した。近村の「王仁三郎」「わにさぶろう」が五女すみ「2代目教主」となって教団わ組織し、聖師と呼ばれた。悪神として禁足されていた「うしとら」の「金神」こそ本源の真神で、今や社会をくつがえして神の国をもたらし、信者は現在・未来の幸福を得ると教え、神道その他の神話・教義を混沌と結合した。「鎮魂帰神」と称する神がかり法を用いた。


 大新聞を買収して宣伝した。1921年第一次の弾圧後は世界卍字会と結び、皇道大本と称し、外郭に世界統一・皇道経済を説く、右翼団体である昭和神聖会を設けるなど、信者10万を超えたが1935年の大弾圧で衰滅した。第二次大戦後ただちに大本愛善苑として再出発し。のち大本の旧称に復した。神秘的天皇制的な国家社会主義の要素を排し、人類愛善会を設けて世界運動を進め、教団を挙げて原水爆反対運動に力をいれている。教主は女系相続で3代教主は 直日 は王仁三郎の娘である。「平凡社 世界第百科辞典」参照。 

 2005年5月21日 17:43:49


C 参考資料「暁教育出版・日本の歴史」「玉川‐百科大辞典・宗教・道徳哲学編」


おもな新宗教一覧表「教祖による創唱宗教を中心として」宗教年鑑より

黒住教 651..454 岡山県今村上中町
●1814年神官の黒住宗忠が天照大神との合一を体験し、布教を始める。天照大神を主神とし、教派神道に属す。
世界救世教 629.816 熱海市伊豆大久保
●1928年岡田茂吉は大本に入信するが、、1934年に脱退し、大日本観音会を開く。1950年、世界救世教と名乗る。観音菩薩がこの世に現れ、光明如来となり、救世主として地上天国をもたらすと説く。人類最大の不幸は病・貧・争にあるとし、浄霊と称する特別の治療術を行う。神仏同体を説く。
生長の家 1.457.778 渋谷区神宮前
●1921年の大本の第一次弾圧を機会に谷口雅春は大本を退き、1930年、神の啓示に基づいて雑誌「生長の家」を創刊し布教をはじめる。万物の根源として「生命の実相」を説き、それを書物に表す。文書活動による布教を特色とする。人間はすべて神の子とみなす。病は気からと言うことで、手のひら治療のような精神療法を用いる。1
三五教
「あなない」
216.341 清水市下清水
●1949年、中野与野助によって設立。中国道院「世界紅卍字会」・バハイ教・大本の三教とキリスト教・仏教・イスラム教・道教・儒教・の五教を融和して万教帰一を説く。「あなない」とは古語で、神に通じる道を言う。世界宗教者会議を数回開く。人類平等・諸宗教一体を強調し、宗教は人類合一のものとみなす。
PL教団 1.265.423 大阪富田林市新堂
●1916年、御木徳一は徳光教の教祖金田徳光の弟子になったが、徳光の死後あとをつぎ、1923年、人道徳光教をおこす。1931年、ひとのみち教団と改称。徳光教のお振替治療を用いて多数の信徒を獲得。戦争中は弾圧されたが、終戦後、子の徳近がPL教団と改称して再建。「人生は芸術である」をモットーとする。
天照皇大神宮教 258.482 山口布施町
●1944年、北村サヨが神がかりになって布教を行う。自分は救世主として、その胎に天照皇大神宮がやどるという。思いついたことを、ふしをつけて説教し、信徒は踊りながら恍惚状態に入って行く。これが。無我の舞と言う。人々を神の子とみなし、地上天国・世界平和を理想とする。日蓮の題目の変型したものも用いる。
本門佛立宗 315.174 京都上京区1条通り
●長松清風「日扇」は、本門法華宗の僧になったが、1857年、在家信者を中心にした本門仏立講を起こす。お題目を唱えて現世利益をえることを強調する。日蓮系新宗教の源流になつた。
霊友会 4.198.635
東京港区麻布飯倉
●1925年、久保角太郎は、二年前に起こした霊友会を二番目の兄の妻 小谷喜美との協力で強固なものにし、日蓮主義にのっとった布教活動を展開する。現世利益と祖先供養が中心で、多くの信徒を獲得した。「法座」と称する一種のサークル組織を用い、これが信徒参集にに大いに役立った。霊友会から種々の信教団が派生した。
立正佼成会 3.505728 杉並区和田
●長沼妙侠は、はじめ。天理教に入ったが、霊友会の庭野日啓にあい、同会に入信。1938年、日啓は妙侠とともに霊友会を脱して独立し大日本立正佼成会を設立した。日啓は姓名判断に優れ、それらを助けにして、1960年亡き妙侠をしのんで立正佼成会と改めた。
孝道教団 365.004 横浜市神奈川区
●岡野正道は、1934年霊友会に入信したが、翌年独立し、孝道会を設立。1948年、孝道教団。今は天台宗に所属。
妙智会 607680 渋谷区代々木
●霊友会に属していた宮元ミツが、1950年に独立して開く。そのほか、同じようなものに仏所護念会「782.064」・妙道会「154.978」妙師会「139.177」などがある。
創価学会 625万世帯 新宿区信濃町
●初代会長の牧口常三郎が小学校校長をしていたとき、のちに二代目会長になる戸田城聖が訪れ、教員に採用された。1928年、牧口は日蓮正宗の信者になり、戸田も、これに続く。1930年、創価教育学会を設立した。小学校教員を主にして会員が増えていったが、段々日蓮正宗の信者団体としての色彩が強くなり、大きな新宗教運動になった。戦時中、弾圧を受け、牧口・戸田ら、21人の幹部が検挙され、牧口は獄死、戸田は終戦間際に許され、1946年、創価学会の名で再建に努める。「真理「正法」は一つ」と言う旗じるしのもとに、強烈な布教活動を行い、特に青年層をひきつける。したる


        
        
はっぴ弁財天様
 C新宗教一覧