健太への思い(母より)

 初めて健太の入院先(K病院)で病名を宣告された時、頭を鈍器で殴られた様なショックをうけ
ました。どうやって病院から自宅まで帰ったか、おぼえていません。健太の父に病名、病状を告
げると泣き崩れ、声に出して号泣していたことが頭の中に焼きついています。

 病気についての情報を必死で集め勉強しました。この頃から「治る病気ではない」
「長く生きられない」を自分に言い聞かせ、もしもの時の覚悟をしなくては・・・と思っていました。
 しかし、一人になると、自然に涙が出てくる。親に話しては涙が出てくる。友だちに話しては涙がでてくる。自分を責め、面会に行っては健太に「ごめんね、元気に産んであげれなくて。 
ごめんね、痛い辛い思いばかりさせて・・・」と謝る。

 私自身、本当に受け止められるようになったのは、かなり月日が経ってからだと思います。
「私が育てなきゃ誰が育てるの?私が健太を守っていく!」と変わっていく自分がいました。

 今私はとても毎日が充実して、楽しく子育てをしています。
健太は、お兄ちゃんたちに比べると、確かに少し違います。世間一般で言う障がい児ですが、私の中では個性、性格の違い程度にしか思っていません。
 いつまでたっても赤ちゃんの3時間授乳(実際、呼吸器の加湿のため3時間おきに溜まった水を排出するので、3時間おきに起きています。)をやっている甘えん坊の3男くん、と言った感じでみています。

 健太を自宅に連れ帰って、はじめからこんな生活ができたかと言うと、とんでもない!健太の心臓が止まって入院したとき、神様が私に「休み時間」をくれたのかと思うくらい追い込まれていました。そこから再度の在宅ができたのは、ある一人の看護師長さんと出逢え、そのM師長さんと話しを重ねる度に(説得されたわけでもなく、普通の会話だったのですが)気持ちが落ち着き、「健太とまたみんなで一緒に生活したい」と思えるようになり、周りの沢山の方の協力で実現できました。

 いざ自宅に帰ると、「天井を眺めているだけではかわいそう」「限られた短い命なら楽しく、思い出に残る人生を歩ませてあげたい!」と言う次なる目標が出てきました。
 私の頭の中で沢山の夢があり、
       「散歩がしたい!」
       「桜見物がしたい!」
       「養護学校へ行きたい!」
       「地域の学校との交流もしたい!」
  そして、
     「こんな生活をしている家族があるんだよとみんなに知らせたい!」
     「これからこの生活のドアを開ける人を励ましてあげたい!」
     「ほんの少しの協力があれば楽しいよ〜って教えてあげたい」
     「全然かわいそうな家族じゃないよ!ってわかってもらいたい!」
  と言う思いでこころが膨らんでいます。
  なんら、みんなの子育てと変わりありません。
               ゆとりの時間も大切にし、楽しい人生を送っています!!



















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